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「隅田川七福神めぐり」
「隅田川七福神とは」
文化元年(1804年)、佐原鞠塢(さはらきくう)により向島に百花園が開かれました。
鞠塢には多くの文人仲間があり、彼らが集ううちに、鞠塢が所有する福禄寿を使って、七福神ができないかという話になりました。
多聞寺の毘沙門天、長命寺の弁財天、弘福寺の布袋尊、三囲神社の恵比寿・大国神までは良かったのですが、寿老人だけが見つからずに思案を凝らした結果、百花園近くの白鬚神社に目をつけました。
白鬚というからには、祭神は老人に違いないということになり、「寿老神」としました。このようにして、隅田川七福神は完成し、向島の情趣に更なる楽しみを加えました。
全行程は約1里(3.927km)で約2時間の散策となります。新春を寿ぐ(ことほぐ)江戸の人々にとり、初詣や散策の格好の場所となりました。
2012年3月、「業平橋駅」(なりひらばし駅)は、「とうきょうスカイツリー駅」に改称
三囲(みめぐり)神社
• 恵比寿 清廉(せいれん)の心を持つ
元は天照大神の兄弟と言われ、兵庫県西宮神社が恵比寿神の廟と言われています。豊漁の神ですが、釣りざおを持つところから、清廉な心をもつ神として古くから商業関係者から慕われます。
• 大国神 知足(ちそく)の心を持つ
元はヒンドゥー教の神で後に仏教の神となりました。釈迦は「自由自在な神通力から富と財を人々に与える」と説き、日本では、中世に大国主命と同一視され、恵比寿とともに福徳の神となり親しまれています。
三囲神社は、中世に三井寺の僧源慶が、一体の稲荷神像を掘り出したとき、どこからともなく白狐が現れ、稲荷神像のまわりを3回めぐったのちに去りました。
ゆえに、三囲神社と名付けられました。江戸時代になり、三井家が篤く信仰するようになり、また松尾芭蕉の高弟・宝井其角の雨乞いの句碑があることでも有名です。
弘福寺
• 布袋尊 度量(どりょう)がある
中国に実在した禅僧・契此(かいし)が、死後、神として人々から信仰されるようになったものです。
いつも満面の笑みをたたえ、いつも人から施されたものを一つの袋に入れて持ち歩いていたため、布袋さんと呼ばれていました。
弘福寺は、鉄牛禅師を開山に迎えて開かれた黄檗宗の寺院で、大雄宝殿は、京都万福寺を模して建てられました。
大雄宝殿の中には、黄金に輝く布袋尊像があります。境内には、喉の病気に効くという咳の爺婆尊、池田冠山の墓などがあります。
長命寺
• 弁財天 愛敬(あいきょう)がある
大黒天同様、ヒンドゥーの神から仏教の守護神となった川の神音楽・弁舌・財福・知恵の神として慕われた長命寺の弁財天は、琵琶湖にある老女弁天を分霊し、七福神で唯一の女性神です。
長命寺は、もと常泉院と号しました。3代将軍徳川家光が鷹狩に訪れた際、体調を崩して同寺に休息したとき、ここの水で薬を服するとたちまちに回復したので、家光より「長命寺」と寺号を授かった。
江戸時代は雪見の名所として知られ、多くの人々が訪れました。
白鬚神社
• 寿老神 長生きする中国の伝説上の人物です。
頭に頭巾をかぶり、白髪で、全ての人間の寿命が書かれた巻物を杖に結び、鹿を連れています。白鬚神社の寿老神は祭神であるため、「寿老人」ではなく、「寿老神」としています。
墨田区内最古の神社のひとつといわれます。
平安時代に慈恵大師が関東に下ったおり、滋賀県に鎮座する白鬚大明神の分霊を勧請して祀ったのが始まりといわれます。
狛犬は、文化12年(1815年)当時花柳界で知られた吉原の松葉屋半右衛門と山谷の料亭八百善が奉納した。
境内には、加藤千蔭や大窪詩仏らの石碑があります。
向島百花園
• 福禄寿 人望(じんぼう)を持つ
幸福・俸禄(金銭)・長寿の三徳を備える神。寿老人と同一であることも。背が低く長頭で長い髭をもち、杖に経巻を結び付け、鶴を従えています。
百花園の福禄寿は佐原鞠塢(さはらきくう)遺愛の品で、非常に穏やかな表情をしています。
最初は、鞠塢の友人たちが贈った360株の梅からスタートしたものですが、のちに四季折々の草花が植えられ、自然のままの趣を大切にした庭園となっていきました。
現在は都立公園となっています。
多聞寺
• 毘沙門天 威厳(いげん)を持つ
仏教を守護する四天王の一神で多聞天ともいい、北方を護っています。戦国時代の名将上杉謙信が、毘沙門天にあやかって「毘」の字を旗印にしていたことは、よく知られています。
多聞寺は、平安時代の創建といわれ、最初は不動明王が本尊です。
狸塚のいわれ
昔、江戸時幕府が開かれる少し前、今の多聞寺あたりは、隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。
大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何ヵ月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。
また、「牛松」と呼ばれる大人が五人で抱えるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸が住み着き人々をたぶらかしていたのです。
そこで、漫海和尚(ばんかいおしょう)と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。
まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池を埋めてしまいました。すると、どうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。
ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天まで届くような大入道が現れて、
「おい、ここはわしのものじゃ、さっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ」
と、脅かすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。
「お前の悪行は、いつかお前を滅ぼすことになるぞ」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにと、塚を築いたのでした。
この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。
-終わり-