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「隅田川テラスの散歩」
「築地~鉄砲洲稲荷神社」
隅田川テラスとは、昭和60年からスーパー堤防等整備事業の一環として、隅田川両岸の堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所です。
現在、隅田川テラスは隅田川の両岸約47㎞の内、約28㎞の区間で整備され都心の貴重な水辺空間として、多くの方々に利用されています。
築地
築地は1657年の明暦の大火以降埋め立てられ、この時に本願寺が浅草横山町から移って信仰を集めました。
かつての南小田原1丁目(現在、築地6丁目)は幕府の軍艦操練所があった所で、明治に入ってからは海軍造兵廠が置かれ、築地5丁目に海軍兵学寮、海軍大学校、海軍水路局など海軍関係の諸施設が集中していたそうです。
また、1923年9月1日に起きた関東大震災で日本橋魚河岸などの市場群が倒壊したあと、隅田川や汐留駅といった水運、陸運に恵まれていたこの地に、臨時の東京市設魚市場を開設したのが、「築地市場」の始まりとなりました。
今回は、築地の勝どき橋の脇から川べりに入り、隅田川テラスの遊歩道を通り浅草方面に向かいます。
川を遡上するような散策の旅となります。
勝鬨橋
勝鬨橋は、1940年6月14日に完成。1940年の「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった日本万国博覧会に日本の技術力を誇示できるような橋が求められました。
そのため、外国の技術を導入せず、全て日本人の手で設計施工を行いました。結果的に博覧会は、日中戦争の激化もあり軍部の反対により中止されましたが、勝鬨橋は無事に完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得ました。
橋には路面電車用のレールが敷設され、1947年から1968年までの間、都電が通行していました。また、建設当時は、隅田川を航行する船舶が多かったため、陸運より水運を優先させるべく、3,000トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能としました。
橋げたを上げる跳開は、1日に5回、1回につき20分程度だったそうです。その後、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となりました。
出だしから「巨大な銀玉」の出現でビックリ!
この先に何が待っているのかワクワク、ドキドキ
佃大橋
佃大橋は、隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流にある永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年の東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋です。
当時、佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取付道路建設のために埋め立てられ、島であった佃島は地続きに、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となりました。
期待にたがわず、何やら怪しげなオブジェ!
墨田川テラスにはお洒落なオブジェがあります。
川の流れ、緑の道、石のオブジェと・・散歩道としては、色々な空想をかき立てる贅沢な空間です。
でも高層マンションがあちらこちらにそびえ立って、昔の下町の風情は無いですね
その分、サッパリとした欧米風のリバーサイドという感じです。
きれいな風景ですが何か物足りないと感じるのは私の歳のせいですかね・・。
ということで、チョット寄り道して「鉄砲洲稲荷」に参拝してから隅田川テラスの散策をしましょ!
場所は地図を見て探してください。<ヒント:左下です>
今では珍しい「二宮尊徳」の像が奉納されていました。小さい子供たちは知らない、おとぎ話ですね!
鉄砲洲稲荷は、江戸初期、今の場所より亀島川沿いにあり、江戸の水路網に入口に位置することから、全国からの船乗りの崇敬を集めました。また境内にある「富士塚」が有名だったそうです。
寛政2年(1790年)に築造された富士塚は、人気を博して歌川広重「絵本江戸土産」には本堂より大きく描かれた富士塚があり、当時の盛況ぶりが見えます。
絵本には湊神社と表記されていますが、江戸後期、神職に権威があった吉田家により名づけられ、また川沿いにあったことから「浪ヨケイナリ」とも称されました。
「南高橋~永代橋」
今、私がいる場所は佃大橋から中央大橋に向かって歩いている途中です。
前回は寄り道して「鉄砲洲稲荷神社」に立ち寄りましたので、もとの遊歩道ルートに戻り「南高橋」からスタート!
<南高橋>
1923年の関東大震災ののち、大規模な区画整理の際に、亀島川のこの地に新しく橋を架けることになりました。ただ、当時の東京市は予算が乏しかったため、関東大震災で損害を受けた両国橋の中央部分を利用して橋を架けることになりました。
<徳船稲荷神社>
江戸時代、越前松平家の下屋敷に祀られていた稲荷神社がありました。
その御神体は徳川家の遊船の舳(へさき)を切って彫られたものと伝えられています。
対岸を見ると、奇怪な建築物があります。
見張台の塔らしき風情があるので展望台なのかな? 後で、何に使われているのか調べてみます。
南高橋を渡り終えると・・またまた妙な建築物が目に入ってきました
<霊岸島水位観測所>
日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は、主要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け平均海面の水位データを用いていました。
「量水標」は、明治5年に利根川河口の「銚子量水標」が日本発で翌明治6年にここ霊岸島と、全国の主要河川にも設置されました。 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、メートル)と呼ばれ、A.P.はArakawa.Peilの略で、Peilは、オランダ語で「基準」あるいは「標準」の意味です。
その後、測量技術の進歩に伴い、平均海面データの全国統一が考えられ、そのときに選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。
しかし、その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり観測所としては理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されてしまい、また霊岸島水位観測所の施設も、隅田川のテラス護岸の施行に伴い、平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設されたそうです。
建設当初に、デザインに凝った設計者がいたのですね。
霊岸島水位観測所について
中央大橋
中央大橋は、隅田川がフランスのセーヌ川と1989年(平成元年)に友好河川を提携しており、架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼しました。
そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されています。機能やコスト一辺倒であった昭和の橋とは違い、都市景観やデザインに気遣いをもたせています。
中央大橋の橋脚に立つ像は、隅田川とセーヌ川との友好河川を記念して、フランスのパリ市から寄贈された「メッセンジャー像」です。
パリ万国博覧会に出品されたもので、希少木材を集めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表わしているそうです。
でも橋の近くからでは背中越しなので顔が見づらいですね。
さあ次は「永代橋」ですね、地図で確認しましょ
ここからだと、東京スカイツリーとのコラボ写真が良いアングルです
関東大震災、復興後の永代橋です
永代橋
永代橋は、元禄11年(1698)関東郡代の伊奈氏が日本橋と深川を結ぶ橋として、当時の「深川の大渡し」に代わって架けられ、現在の佐賀一丁目付近が昔、永代島と呼ばれていたため永代橋と名づけられました。
近頃の隅田川は遊覧船が盛んになり、屋形船だけでなくオシャレな船も行き来しています。
<日本橋川>
永代橋と隅田川大橋の間にある「日本橋川」は、江戸時代には、物流の中心として市民の暮らしを支え、築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸(かし)があり大変賑わいました。
また現在も、明治・大正時代に架けられた有名な橋梁や、周辺には当時の栄華を忍ばせる西洋建築物が現存するなど、江戸・東京の歴史を残す川となっています。
金融・証券の中心である東京証券取引所や日本銀行本店なども、この川沿いに立地しています。
「永代橋~隅田川大橋」
永代橋は車道5車線分とそれを挟んで左右にそれぞれ歩道がある非常に幅の広い橋で、この道は「永代通り」と言います。 ここに来ると写真のように大きな「○」「×」標識が目につきます。
どうやらこの橋にはリバーシブルレーンという交通規制がかけられているようです。
<リバーシブルレーン>
渋滞緩和のために中央線(センターライン)の位置を時間帯によってずらし、交通量が特に多い方向の車線を特定の時間帯のみ増やす交通規制のことです。
この辺りは、江戸時代から栄える日本橋川流域です。また永代橋で隅田川を渡ると深川と、江戸庶民の生活が色濃く残る場所です。
<赤穂浪士休息地の碑>
元禄15年(1702)12月14日に本所松坂町の吉良邸に討ち入って本懐を遂げた赤穂浪士の一行が、一ツ目通りを引き上げる途中で乳熊(ちくま)屋味噌店に立ち寄り、甘酒の接待を受けて休息したのちに、永代橋を渡って高輪泉岳寺へ向かったといわれています。
<河村瑞賢屋敷跡の碑>
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢の屋敷がありました。
瑞賢は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。
また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行い、その業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕府米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。
晩年にはその功績により旗本に列せられました。
<豊海橋>
それでは、日本橋川を渡ります。その橋の名前は「豊海橋(とよみばし)」です。
横から見ると梯子を横倒しにしたような外観を持ち「フィーレンデール橋」と呼ばれる全国でも珍しいデザインだそうです。
豊海橋から日本橋川の上流側を見ると、
江戸時代には、この川一面に船が浮かび、往来が盛んだったのだろうと思われます。
ちなみに日本橋川に架かる橋の碑がありましたのでご覧ください。
今、私がいる場所はこのあたりに居ます。次は「隅田川大橋」に向かいます。
隅田川大橋
隅田川大橋は首都高速道路(9号線)と都道47号線が重なった2段構造の橋になっており、上段部分が首都高速道路で下段がいわゆる「隅田川大橋」です。
昭和54年(1979年)に完成したこの橋は隅田川に架かる唯一の2階建ての珍しい橋です。
隅田川大橋の近くには日本橋蠣殻町にある「水天宮」があります。
<水天宮>
本来は水難除けの神様として船乗りの守護神でしたが、現在では安産にご利益がある神社として有名です。
総本社は福岡県久留米にあり、700年以上の歴史を持つ由緒ある神社です。
もとは文政元年(1818年)に久留米藩主が江戸藩邸(港区、赤羽橋)に水天宮を勧進したことに始まり、現在地に移ったのは、明治維新政府により久留米藩の江戸藩邸が接収された明治5年(1872年)のことです。
当時の社殿は、関東大震災により焼失してしまい、現在の権現造り社殿は平成28年(2016年)の建築です。
「清洲橋~新大橋」
「隅田川大橋」を超えて「清洲橋」に向かっています。
清洲橋
大正14年に起工し昭和3年(1928年)3月に完成しました。ドイツのライン川に架かる世界の美橋、ケルン市のつり橋をモデルとして設計された優美な女性的な橋です。
橋の名前は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることから、その町名の頭文字を一字づつ採ってこの名前が付けられました。
優美な女性的な橋との説明ですが近くから見ると、ガッチリとした作りです。ドイツ的な美的なんでしょうね
<平賀源内>
川向こうの清澄町にはエレキテルで有名な平賀源内の家があったそうです。
エレキテル(摩擦発電気)はオランダから日本に伝わったものですが、それを自作し実験を行ったことから平賀源内の代表的な発明品として後世に知られるようになりました。
平賀源内は深川の自宅にて実験を行ったことから、現在その跡地には「電気実験の地」の石碑が立っています。
そこから川沿いにすこし歩くと「万年橋」です。古くは縁起を担いで「萬年橋」と表記されています。
<萬年橋>
萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8年(1680年)の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載があります。
江戸時代初期、この橋の北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていましたが、明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、寛文元年(1661年)に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来しています。
小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていましたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿を愛されました。
葛飾北斎は富嶽三十六景の中で「深川萬年橋下」として、歌川広重は名所江戸百景の中で「深川萬年橋」として取り上げています。
新大橋
関東大震災で残った橋は、新大橋、両国橋、吾妻橋の三橋でした。
当時の新大橋は、現在の装いとは随分、違いますね!
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。
江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられています。
当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場し、ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図です。
「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからです。
ここらで、「わんわん広場」か近くの「浜町公園」で、チョットひと休みしませんか。
「新大橋~両国橋の散歩」
休憩を済ませ、そろそろ「両国橋」を目指します。途中、人が渡る橋ではありませんが「両国JCT」があります。
地図を見ると、川向こうの両国には「本所松坂町、吉良邸」跡地が公園として残されています。
<本所松坂町公園>
公園内には、忠臣蔵に基づいた各種の展示のほか、討入事件で主君のために戦い、亡くなった吉良家家臣の石碑や、吉良上野介追慕碑などがあります。
平成22年12月12日、吉良上野介義央の座像が公園内に建立されました。12月14日、地域主催の義士祭では多数の出店などがあり、観光客で賑わいを見せるそうです。
吉良上野介義央(よしなか)は18歳の時に、米沢藩30万石上杉家の娘、富子を妻に迎えます。
ところが数年後、妻の兄、上杉家当主、綱勝が謎の突然死で、嫡子がいない上杉家は、藩存続の危機に陥ります。断絶を防ぐため、急遽、吉良義央と富子の子、三之助(後の綱憲)を嫡子として幕府に申し出ることになりました。
その際、当主死亡の後の届出のため上杉家は30万石の内、半分の15万石を幕府に差し出すことで、ようやく米沢藩15万石の後継として許可を得たとのことです。
この話には、当然、陰謀説があります。吉良義央による毒殺や藩乗っ取り説の噂ががまことしやかに流布されます。それほどの大事件だったようです。忠臣蔵だけでなく、時代に名前を残す吉良義央公!
<両国回向院>
振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦3年(1657年)の大火の焼死者10万8千人を葬った万人塚が始まりです。
著名人の墓で山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などが知られています。
天明元年(1781年)以降には、境内で勧進相撲が興行されました。これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909年)に旧両国国技館が建てられました。
今日の国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともあり、昭和11年(1936年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立しました。
旧国技館の写真です
昔、吉良邸跡地に来たときは土塀もなく、ただ石碑がポツンと在っただけの小さな広場だったんだがなぁーと思いつつ、隅田川テラスの遊歩道に戻りました。
次も?、いや、こちらは開きそうです!
でも今度は本当にカギがかかっているよで、無理強いすると不審者扱いになりそうです。
本当にデザインに凝った世界観ですね いろいろ見ていたら、いつの間にか「両国橋」です。
両国橋
江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし明暦3年(1657年)の「明暦の大火」の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまい、事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになったと伝えられています。
名称は当初「大橋」と名付けられましたが、しかしながら西側が「武蔵国」東側が「下総国」と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6年(1693年)に新大橋が架橋されると正式名称となりました。
丁度、橋の修繕中でしたので外観が良く分かりませんでした。
橋の袂に行ってみると、噂通りに大きな玉がありました。
築地「はとば公園」の銀玉と比べても遜色ありません。
「柳橋~蔵前橋の散歩」
蔵前橋に向かう途中に、神田川に架かる「柳橋」があります。
<柳橋>
江戸時代、神田川の下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡し船で往来していましたが、不便なため元禄10年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
現在の柳橋は、永代橋のデザインを取り入れ昭和4年(1929年)に完成しました。
神田川には数件の船宿があり、情緒のある風情を残しています。
時代劇ではお馴染みの「船宿の舟遊び」「柳橋芸者」とイメージが膨らむ光景です。
柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)頃で、記録によると14名が住んでいたそうです。天保13年(1842年)水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成され、やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となっていきました。
幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようになりました。現在ではマンションやビルが立ち並び、一部の場所で花街の痕跡が残っている程度とのことです。
柳橋芸者が通った「石塚稲荷神社」です。
丁度、ごみの収集日だったみたいでしたね。
隅田川テラスに戻ると、総武線の橋梁がありました。
鉄道マニアであれば一言二言の話がでるのでしょうが、残念ながらそうではありませんので、ご鑑賞の写真だけですみません。
今の場所はこの当たりです
<蔵前橋>の方を見ると、黄色い蔵前橋とスカイツリー、隅田川テラスと中々良いアングルです。
さらに近づくと
蔵前橋
蔵前(くらまえ)の名前は、江戸幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来します。
橋全体が稲のもみ殻を連想させる黄色に塗装されています。関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋され、それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所でした。
関東大震災の復興後の写真がこちらです。当時は、まだ地味な装いでしたね
今私は、ここあたりに居ます。
<浅草御蔵跡>
この区域は、今の蔵前橋を中心に柳橋2丁目4番から厩橋の手前に至る一帯で、敷地約12万平方メートルに67棟もの蔵が立ち並んでいたと云われています。
ここで収納された米は旗本、御家人への支給米や、幕府の備蓄米として勘定奉行が管理していました。
<首尾の松>
江戸時代、隅田川の岸に枝が川面にかかる松があったそうです。
その名前の由来は諸説あり、寛永年間(1624年~1643年)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光公の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が人馬もろとも飛び込み、見事に対岸にたどり着き、家光公がこれを賞して謹慎を解いた。その時かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
遊郭の吉原に遊びに行く時、隅田川にあるこの松を目印に往来し、語ったことからの説。
首尾は「ひび」のなまりから転じたとの説で、この辺りで海苔を採るため水中に立てた「ひび」がなまり、「首尾」となり、目印となった松が「首尾の松」と称したという。
夜な夜な隅田川を行きかう船、遊郭に通うのか、夜景を楽しむのか
-終わり-